「海色の蟹」
雨が降った。
嵐のような雨だった。
朝起きてみると僕の部屋のベランダは水びたしになっていた。
おいてあったベンジャミンの植木鉢にも水たまりができていた。それはなんだか水たまりというより、
ちいさなちいさな海のように見えた。無人島と木と、それを囲む海。嵐の後の太陽が水面をきらきらと
照らしていた。南の島みたいだ。
でも、僕は朝ご飯を食べてランドセルを背負った頃には、そんなことすっかり忘れてしまった。
水たまりなんて雨上がりいつもできていたから。学校から帰ってくる頃にはすっかり消えてしまっていると
思っていた。
だけど、夜になってその水たまりを見て、僕は驚いた。まだ水があったからじゃない。海のなかで
おもちゃの蟹が一匹、シャシシャシとはさみを動かしていたんだ。
■□■
その蟹は昔僕とよく海遊びをしたおもちゃだった。
(海遊びっていうのは、お風呂のなかが海で、身体を洗うところが無人島って決めて、ロビンソン・クルーソー
みたいに探検したり魚を探したりする遊びだ。南の島には蟹はいなくてはならないものだと、昔の僕は
思いこんでいたのだ)
お風呂のなかで遊んでいたせいか、あちこち錆びてきた。だんだんゼンマイがまわらなくなって
動かなくなった。そして僕はその蟹と遊ばなくなった。海遊びもしなくなった。
他のおもちゃで、他の遊びをするようになった。
いつのまにか蟹は、おもちゃ箱の底の方に押しやられていった。
■□■
でも、ここにある。
小さな海のなかで動いている。
それにあんなに錆びて汚れてしまったのに、よく磨いたりんごのように光っていた。
とてもうれしそうにはさみを振っている。
ベットにはいってもう寝よう、もしかしたら夢かもしれない。僕はベランダの鍵をきちんとかけて、部屋のなかに
入った。
■□■
やっぱり夢だった。
起きてすぐベランダにいってみたのに、蟹はいなかった。ただ水たまりがあるだけだった。
僕はちょっと悲しくて、学校まで走っていった。
■□■
その夜、僕は寝ている途中で目が覚めてしまった。音が聞こえたからだ。シャシシャシという、あの音が。
ヘンデルとグレーテルが空にまいた光る星の下に、蟹がいた。
蟹は小さくシャカシャカっと言った。
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次の日から、僕は蟹に会いにいった。そしていろいろな話をした。
プールで25メートル泳いだこと。ラジオ体操に遅刻してしまったこと。大きくなったら飛行機のパイロットに
なりたいこと。僕と蟹のこと。思いつく限りのことをなんでも話した。蟹は人間の言葉はしゃべれないけど
シャシシャシ、シャシシシシ、シャシャンって、ちゃんと返事をしてくれた。僕はそれで十分だった。
おうむに話しかけるロビンソン・クルーソーみたいだ。僕はそう思った。そして気がついた。
また、蟹と一緒に海遊びをしている。
■□■
夏休みの終わりのある日、僕は台風がくることを蟹におしえてあげた。
ここにいても大丈夫かな、飛ばされたりするなよ。そう言って僕はベランダを出た。
リビングではお父さんが天気予報を見ていた。僕も一緒にみた。
ちゅうしんきあつ925へくとぱすかるさいだいしゅんかんふうそく25めーとる。海の近くに住んでいる方は
注意してください。海。蟹は大丈夫なのかな。海、僕と蟹の海。海、青い青い海。海・・・。
蟹と海のことを考えているうちに、いつのまにか僕は眠ってしまった。
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次の日、とてもいい天気になった。
雨と風できれいに洗われたような太陽だった。
眩しさにふと目を下に向けて、驚いた。
植木鉢は昨日の風のせいで倒れてしまっていた。すぐに直したけど、ただ土が湿っているだけで、
水たまりはなくなっていた。蟹の姿はなかった。
学校から帰って夜になっても蟹は出てこなかった。もしかしたらとおもっておもちゃ箱のなかも捜した。
蟹は見つからなかった。そしてもうひとつ、たしかにあったはずなのに見つからないものがあった。
おもちゃの飛行機。
僕は悲しくなくなった。
きっと蟹は飛行機に乗って海に行ったんだ。本物の海に。広い広い海に。
台風の風に乗って、南の島の海に。
おもちゃの飛行機の飛びまわるしたで、シャシシャシはさみを鳴らしているんだ、きっと。
いつかまた、海遊びしような。
「umiironokani」 is
written by Kei Amano as ohnokeiko.1995.July.7